The legacy of Arrigo Sacchi By Michele Tossani

 イタリア代表が1992年の欧州選手権の出場を逃したとき、イタリアサッカー連盟は、ミランの伝説的なヘッドコーチ、アリゴ・サッキに1994年のワールドカップ予選でアッズーリの指揮を依頼した。
 いつものように、サッキは自分の明確なビジョンに従って仕事を引き受けた。彼は何人かの有名で愛されている選手、例えばインテルゴールキーパーのワルテル・ゼンガやユベントスフォワードのジャンルカ・ヴィアリ、を代表から外した為に批判を浴びた。シンプルに言って、彼らはサッキの4-4-2のやり方に適していなかったし、前ミランコーチの戦術的アプローチの要求にも応える事ができなかった。
 事実、サッキのフットボールは高度な要求がされた。彼が望むボール保持することでゲームをコントロールするために、選手達は継続的にハイプレッシャーを掛け、できるだけ早くボールを取り戻さなければならなかった。
 この完成度の高みに到達するために、サッキは常に日々の基本的な練習に重点を置いた。彼は選手達に、しばしばチーム全員が一緒になって動く、多くの練習メニューを経験させた。この方法は選手の考えを同じにするための時間が必要になるので、サッキはシーズン中に、アッズーリの特別なトレーニングキャンプ徴集の許可を各クラブに依頼する一方で、インターナショナルブレイクの間、細心の注意を払って彼らと共に練習を行った。
 サッキとコーチングスタッフ(カルロ・アンチェロッティに象徴されるようなアシスタントコーチ)は、自分たちを単にコーチというより教師、アッズーリをナショナルチームというよりクラブと考えた。それはサッキがワールドカップ前の期間中、異なるクラブから集まる選手達ではなく、ユニットして彼らに考えさせるために大量の戦術的コンセプトを導入しようと、多くの選手を試したことを意味する。
 戦術的な観点から、前に述べたようにサッキは4-4-2の形を好んだが、このシステムは当時、十分に流動的だった。ボールを保持しているときは、両端のプレーヤーの一人を(通常はジュゼッペ・シニョーリ、サッキが左ウィングにコンバートした最高のイタリア人ゴールスコアラーのうちの1人、)ロベルト・ハッジョとピエルルイジ・カジラギのトップの位置まで上げて、より4-3-3に見えた。

Roberto Baggio’s role
 ロベルト・バッジョはキーマンだった。彼はサッキの戦術的なアプローチで、ある程度の自由を享受したにもかかわらず、そのユベントスの選手は、チームのパターンに従って、フィールドの最後の3分の1を動き回らなければならなかった。だから、ロベルト・バッジョがいくつかのパスコースをカバーしたり、相手のラインの間でボールをかすめる為に下がってくるのは珍しいことだった。
 更に、ロベルト・バッジョはミッドフィールドと攻撃を、アウトサイドへのパスかそれとも最前線のもう一方のFWへスルーパスを供給することで、リンクさせた。基本的にロベルト・ハッジョは、自身がフォワードとしてプレイするためにファイナルサードをより高く押し上げる自由な攻撃的MFとしてプレイした。
 ロベルト・バッジョの動きは、ほかの動きと混ざり、イタリアが相手のディフェンス構造とコンパクトさを操ることができる複数の戦術パターンを生成した。これらのパターンは通常、両サイドを突破した。イタリアは、ウィークサイドあるいは相手のバックラインの背後への直接攻撃に適していた。

Arrigo Sacchi’s defensive approach
 イタリアの攻撃のもう一人のキーマンはベテランのフランコ・バレージだった。以前はリベロで、ミランでサッキにセンターバックにコンバートされたバレージは、アッズーリのバックラインからの組立ての中心だった。彼は、バックラインからボールを外側のサイドバックか、セントラルミッドフィールダーデメトリオ・アルベルティーニディノ・バッジョへパスを通すプロセスを開始するために、しばしばボールをゴールキーパーから受けた。バレージ、自分に近いサイドバック、セントラルミッドフィールドで三角形を生成した。しかし、バレージはチームに数的優位をもたらすスペアマンとして、中盤まで上がる事もできた。
 サッキはワールドカップを通して、この攻撃の哲学には忠実なままであったが、一方で守備の戦術に関しては同じではなかった。事実、アメリカでチームが直面した高温な気候はイタリアに守備のアプローチの変更を強いた。サッキは当初、自身が好むハイプレス戦術を繰り返すプランだったが、気象条件によって何らかの別の方法が必要なのは明らかだった。
 このため、ハイプレッシャーを時々取り止め、4列のうち2列がディフェンスに戻る4-4-2や、下がり目の4-5-1など慎重な守備的アプローチを取った。
 この攻撃と守備、両方の全体構造は、ロベルト・バッジョの個人の功績に主にフォーカスを当てた1994年のワールドカップの分析をするとき、しばしば目立たない。代わりに、サッキが同様のことを言ったが、チェンジオブプレイとロベルト・ムッシの右サイドのオーバーラップを受けて、自陣でコレクティブにプレイし始めたことが、ナイジェリア戦の終了間際のロベルト・バッジョの同点弾をもたらした。
 サッキのやり方をよりよく理解するために、2018年のFIFAワールドカップでアルゼンチンのホルヘ・サンパオリと比較することがでる。サンパオリは、アルゼンチンの攻撃の鍵となったリオネル・メッシに強く依存したチームを築いた。メッシはアルゼンチンの攻撃の問題を解決する役割を任されていたが、一方でチームメイトは自分のプレーをNo.10のポジションに合わせなければならなかった。
 サッキのアプローチは異なっていた。彼は決して1人のプレーヤー、ACミランルート・フリットマルコ・ファン・バステンでさえ、チームをリードすることを頼んだことはなかった。サッキによれば、選手は、個人のスキルが存在できる組織の一部に過ぎない。
Conclusion
 一人の選手に過度の依存をするチーム形態を好む戦術的な原則に忠実であり続けることは、ノルウェーに対して行ったサッキの断固とした決断が今では思い出される。この重要なグループステージの試合中、ゴールキーパージャンルカ・パリュウカが、バックラインがオフサイドを仕掛けようとして犯したミスをカバーしようとペナルティエリア外でボールを手で扱い退場させられたため、一人少ない状況を強いられた。
 パリュウカ退場の数秒後、控えゴールキーパーのルカ・マルケジャーニが交代の準備を行った。サッキは、カジラギシニョーリをピッチに残し、ロベルト・ハッジョとの交代を決断した。「9人の走れる選手が必要だった」。この勇敢で非常に不評な行動は、1-0の極めて重要な勝利を生み出すという効果をもたらした。
 その続きは有名な話。チームキャプテンバレージが膝の怪我に見舞われたにも関わらず、サッキは左サイドバックパオロ・マルディーニを中央に動かし、マウロ・タソッティ、ムッシ、アントニオ・ベナリーヴォのディフェンダー陣でバックラインの再編成をする事ができた。バレージはブラジルとの決勝戦で戻り、イタリアはPK戦までクリーンシートを維持した。